約30分で浜松城に到着です。
丁度桜が満開に咲いています。
平日にもかかわらず、駐車場が満車状態です。
浜松城公園、青壮年期の家康公が17年間すごしたこと
から別名「出世城」とも言われています。

3月下旬から天守閣を取り巻くように約500本の
桜が咲き乱れ、夜も大勢の人で賑わいます。
城壕周辺には美術館や茶室などがある。
満開の桜が!公園に目を向けると家族づれが芝生で
楽しそうに遊んでいます。
満開の桜をデジカメでパチリ
!浜松城!めがけて満開の桜を見ながら、階段を登ります。
お城から下を覗くと、なんときれいな景色なのでしょう。
公園の桜の先にはホテルコンコルドが見えてきます。
この風景が最高にステキです。
お城に到着です。お城の下の芝生には花見を楽しむ人達が
場所取りの人もいるのかも知れませ。
満開の桜をバックに浜松城を
ぜっこうのシャッターチャンス、スポッとです。
何枚も写真をとりました。
城の中は資料館となっていますが、以前入りましたので
今回は写真のみです。
日本庭園、せせらぎの池や小さな滝もあり、散策には最適です。
公園の中には、派出所やトイレもお城で作られています。
ここで浜松城の歴史にふれて見たいと思います。
家康は1542年!岡崎城で誕生!しました。父は松平忠信です。
!6歳で小田信秀、8歳〜19歳まで今川義元の人質!となり
少年期を他国で過ごした。
徳川家康の築いた浜松城は、天下統一への足がかりと
なった!「出世城」です。若き日の家康の野望とロマン!
1568年天下を盗るためにはまず、信玄を倒さなくては
ならないと判断した家康は
1570年に岡崎城を長男信康に譲り、三方ヶ原台地の東南端に
浜松城を築城、駿遠経営の拠点とした。
29歳〜45歳まで17年間を浜松城で過ごしましたが
姉川、長篠、小牧、長久手の戦いもこの期間の出来事です。
特に1575年の三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上で
あったと伝えられいます。
この17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の
時代だったと言えるでしょう。
犀ヶ崖、三方ヶ原の合戦の夜
(家康生涯で最大の敗戦と言われています)
武田軍を寄撃、崖に白い布を掛けて、橋と見せかけて
武田軍を次々と崖下に転落させた。
その当時!犀ヶ崖下は90M!もあったと伝えられいます。
今も布橋と言う地名が残っています。
私達は浜松時代、布橋のすぐ近くに住んでいました。
犀ヶ崖のたたり
「三方ヶ原の合戦」翌ヶ年頃より、夜更けになると犀ヶ崖の谷底から
人や馬のうめき声が聞こえて、付近では怪我人が続出したり
イナゴの大群が発生したり、農作物に害を加えたりしたため
人々はこれを犀ヶ崖の戦死者の「たたり」と恐れるようになりました。
そこで家康は、三河から了傳という僧侶を招いて、7日7夜
鉦と太鼓を鳴らして供養したところ、「たたり」は鎮まったと
伝えれています。
家康の散歩道
市内に点在する家康ゆかりの地を歩いてまわる散歩コースです。
全長6,5キロ、約1時間のコースです。
*私は犀ヶ崖の近くに住んでいましたので、よくこの散歩道を
通り家から浜松城まで約30分のコースを歩いたものです。
犀ヶ崖資料館前から姫街道が通り、それに平行して
すぐ横の崖下に整備された!家康の散歩道のコース!があります。
その当時は犀ヶ崖の伝説は知りませんでした。
シ〜ンとしていてあまり人と出会うことがありませんでした。
*小豆餅と銭取
三方ヶ原合戦に敗れて家康軍は、逃げる途中空腹のため、1軒の
茶屋によって小豆餅を食べていると、武田軍が追って来たため
代金も払わずに茶屋を飛び出した、茶屋の老婆は数キロ先まで
追いかけ代金を受け取った場所が(銭取)と呼ぶようになったと
言われています。
茶屋があった場所は!小豆餅!の地名となったとも言われています。
浜松の地名は家康に関係して付けられた地名が多いように思います。
*出世城→浜松城の歴代の主が幕府の重役に出世した例から
「出世城」と呼ばれるようになりました。
家康45歳、静岡の駿府城に入りました。
良ければ↓をクリックして下さると励みになります。
★人気ブログランキング★

浜松城の歴史や地名の由来など
今まで耳にした程度しか記憶にありませんでしたが、みのりさんと出逢ったお陰で
改めて知った事も多く、また郷土への興味も湧いて来ました〜
訪問ありがとうございます。
浜松の歴史に興味をしめして下さり
ありがとうございます。
生まれて育っ土地の歴史はとても興味がありますよね〜
地名も家康にちなんで付けられた名前が多く〜浜松にはとても興味を持てました。
ありがとうございました。